ご寄付のお願い

社務所大修理の寄付金募集趣意書

島根県大田市大森町の井戸神社は、江戸時代の享保年間に大森代官を務め、数々の功績を残した、井戸平左衛門正明という実在した人物を祀る神社です。

井戸公の事績

井戸公が大森代官に就任したのは享保十六年(一七三一)で、翌年の享保十七年には全国的に大きな被害が広がり、多くの餓死者を出した「享保の大飢饉」に遭遇します。未曽有の大飢饉に際し、井戸公は領民を飢餓から救うため即断即決の施策を次々に講じます。自らの財産や裕福な領民から募ったお金を資金にして米を購入したほか、領内の被害の状況を自ら検分して歩き、被害の状況に応じて年貢を免除または減免、最後には幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて領民を救いました。

また、飢饉が襲来することを予見していたかのように、米や麦が凶作の年でも領民が飢えに苦しむことがないようにと、薩摩で栽培が普及していたサツマイモ(甘藷)を導入して栽培を奨励し、以後石見の国からは飢饉による餓死者が出ることがなくなりました。

数々の善政、中でもサツマイモの導入によって親から子へ、子から孫へと命を繋ぐことができた後世の人々は、井戸公を「いも代官」と親しみを込めて慕い、毎年各地の寺院などで芋法事を営んで遺徳に感謝し、また、村々のあちこちに感謝を表す頌徳碑を建立しました。頌徳碑の建立は島根県だけでなく鳥取県、広島県、岡山県にも広がり、令和四年度末現在で全五百三十三基という膨大な数の頌徳碑が確認されています。

井戸神社創建・移転、再建 

明治十二年、地元大森を中心に井戸代官を祀る神社が創立され、明治二十三年には井戸公の崇高な事蹟を知った枢密顧問官の勝海舟が井戸神社の扁額の「井戸神社」の文字を揮毫しています。

後年、神社前の道路の拡幅工事によって神社の敷地が狭くなり、移転、再建の必要に迫られましたが、井戸公を崇敬する長久村(現大田市)の衆議院議員、恒松隆慶氏が明治四十四年に興復会長に就任して精力的に浄財を募り、桂太郎総理大臣やほとんどの大臣をはじめ中央政界から多くの浄財が寄せられました。後日総理大臣になった原敬氏、犬養毅氏、若槻礼次郎氏なども浄財を寄せています。財界にも働きかけており、日本資本主義の父と称され、その肖像が令和六年度から一万円札にお目見えする、渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏、、藤田伝三郎氏をはじめ多くの実業家からも浄財が寄せられるなど、まさに全国的な注目の中で再建が図られ、大正五年に現在の場所に完成しました。

井戸神社の現在

以来百年以上が経過し、この間、本殿、拝殿などの修理を行ってきましたが各所に傷みが見られ、中でも昭和六十年以降修理を行っていない社務所の傷みが厳しくなっています。

また、平成三十年、震度五強の島根県西部地震に見舞われたことによって大鳥居に倒壊の危険が及んだため、令和二年に再建しましたが、ほかにも、敷地の周囲の石垣など広い範囲で修理が必要な状態となっています。

今回、以下の計画で大修理を敢行し、全国から寄せられた浄財で再建された井戸神社を将来に亘って長く存続いたし、公の崇尊敬慕の誠を伝え続けたく、皆様方のご寄付を賜りますよう、心からお願い申し上げます。

令和五年十二月吉日

井戸神社

宮  司  中 田 宏 記
責任役員  松 場 大 吉
役 員 一 同

井戸神社社務所修理

総事業費               弐千万円
補助金                壱千万円
ご寄付金募集額       壱千万円

修理日程
令和五年十二月四日     工事開始
令和六年三月末          第一期工事完了
令和六年五月吉日         第二期工事完了
令和六年五月二六日
午前十時半より 修理奉告祭
午前十一時より 例大祭

ご寄付振込先

山陰合同銀行 大森出張所(店番261) 普通口座 口座番号:4501094

井戸神社 代表役員 中田宏記